MANIERA

映画は映画だ。

孤独な日本映画

こんばんは。

いきなりなんですが、最近、「日本映画」について考えています。邦画じゃないですよ、「日本映画」です。僕は邦画とは言わずに「日本映画」と呼ぶことにこだわりを持っています。なぜか?自分なりの‘‘映画的愛国心’’といいましょうか、ある種の日本映画に対する誇りや期待が少しでも存在する限り「日本映画」と呼んでいきたいと考えているのです。そう考えるようになったのもすべてがゴダールのせいであります(ゴダールはぼくの心をいつだって掻き乱す)。2002年のことです。第14回高松宮殿下記念世界文化賞受賞のためにゴダールが来日した際、記者会見で日本映画について聞かれ、彼はこう答えました。

「日本には、溝口健二黒澤明小津安二郎、成瀬己喜男といった優れた映画作家がいた。大島渚の『青春残酷物語』が真のヌーベルバーグだと思う。私やトリュフォーよりも前に、オオシマは既存の映画とは全く違う映画を撮っていた。また、北野武も素晴らしい。私は『HANA-BI』を気に入っているが、日本映画だからではなく、出演者が日本人だということを忘れるほど普遍的な映画だからだ。だが、“日本映画”というものは存在しない。ここでいう日本映画とは、日本人という民族の顔が見える映画のこと。映画とは、ある民族が自分自身の姿を見極めようとする手段だと思う。」

コメントの前半部はニヤニヤしてしまうと同時に「ま~たあの四人か」といったある種、優越感に浸ったような心持で読むことができましたが、後半部を読んでいくにあたって次第に顔がこわばっていくのがわかりました。「日本映画というものは存在しない?嘘だ。ゴダールさん、あんたは本当に日本映画を観たのか?それに、溝口、黒澤、小津、成瀬だけが日本映画じゃないぞ」と少々興奮気味になってしまいそうになるのを抑えて、なぜゴダールにこうも言われなければならないのか冷静に考えて(?)みます。

ゴダールにこうも言われなければならないその原因はゴダール自身にあると僕は考えます。ゴダールは「日本には溝口、黒澤、小津、成瀬といった数人の映画作家は存在したが、仏、伊などと違い、その国が何なのかを表現する“日本映画”は存在しなかった」と仰ってますが、本当に日本映画を観てきたのか?と問いただしたくなります。本当に小津を観れていればこんな発言はしないでしょう。それに、1920年代、1950年代の二度にわたる黄金期にはその4人以外にも数多くの巨匠たちが「日本という国」を表現してきました。山中貞雄清水宏、島津保次郎、澁谷實...。挙げればキリがありません。彼らが「日本映画」を撮っていなければ、何を撮っていたのでしょうか。

近年の日本映画においても、僕は「日本映画」は存在する、と言いたいです(胸は張れませんが)。例えば、「アイアムアヒーロー」。これはゾンビ映画ですが、確実にゴダールの定義するところの日本映画です。この他にもいくつか挙げられます。それは全体的に見れば、砂の粒のようなものかもしれません。しかし、たとえ粒のようであっても、その粒の存在は誰にも否定できないでしょう。

ゴダールは日本映画の存在を否定しましたが、僕は「日本映画」の存在を信じています。